公開: 2019年8月30日
更新: 2019年8月31日
第1次世界大戦後のパリ講和会議によって、戦勝国の日本は、それ以前にドイツが中国から得ていた中国東部の山東省を支配する権益を、敗戦国のドイツから引き継ぎました。これに反対して、中国全土で中国のエリート層による、「反日愛国運動」が盛り上がりました。この反日運動の盛り上がりは、結果的に、中国の若者達に共産主義思想への共感を増大させる結果になりました。その反日愛国の精神は、新しい中国を建国しようとしていた孫文の思想にも影響を与え、社会主義国ソ連との連携して、中国の労働者と農民が互いに助け合って、日本軍を中国大陸から排除すべきとすると言う方針の成立を加速させました。当時、日本は、日清戦争、日露戦争、第1次世界大戦に勝ち、中国大陸における権益を少しずつ拡大し、中国の一部、特に満州地域を植民地化しようとしていたからでした。その日本による、経済、政治、軍事的進出に歯止めをかけるのが、排日運動の目的でした。
この運動は、日本が中華民国に対して提示した、対華21カ条要求に対して、学生らが反対運動を起こし、全国の大都市に波及した1919年頃から、「抗日運動」と呼ばれるようになりました。この抗日と言う呼び方は、今日でも中国共産党が用いている言葉です。